パッションフルーツ
2026年5月26日
調理台の上にパッションフルーツがひとつ置かれている。皮はまだ滑らかで紫色のなかに白い点々が散っていた。軸の跡が浅く窪み、その周りだけが乾いている。窓の外はもう暗く、台所の蛍光灯でパッションフルーツが艶やかに照らされている。私はパッションフルーツというものをこれまで一度も食べたことがなかったので、どんな味がするのか、想像もつかなかった。
家の目の前に小さな青果店がある。同じ看板の店を別の駅でも見かけたことがあった。旬の野菜と果物を扱う店で、昼と夕方の時間にだけ弁当が売られる。その日は仕事の帰りで、空にはもう薄い藍色が残っているだけだった。店先にはフルーツが並んでいて、他の場所ではあまり見かけない、名前を知らないものも混じっている。間接照明の光が果物の表面に均等に当たり、どの色も実際より少しだけ鮮やかに見える。パッションフルーツはふたつの皿に分けて並べられていた。片方の札には「沖縄産、皮がしわしわになるころが食べごろです」と書かれていた。もう片方も沖縄産のようで「熟成せず今日のうちに食べられるパッションフルーツです」と書かれていた。前者は1個200円、後者は1個450円、値段が2倍以上違うことを確かめてから私は450円の方を手に取った。
パッションフルーツを手に私は店の入口に立っていた。今夜の弁当はコンビニで買って帰るか、それともここの店で済ますか考えていた。コンビニ、と思った瞬間、母の言葉を思い出した。むかし、テレビにコンビニ弁当を食べる子どもが映ると、母は呆れた声で言った。「あんなものを子どものころから食べていると発育に影響が出る。もしかして、あの子はネグレクトされているんじゃないかしら」成長への影響はわかる。だが家庭の事情はそれぞれあるのだし、ネグレクトは言い過ぎだと思った。どうやら私の母には理想の母親像というものがあるらしい。帰省した時も最近何を食べているのかと聞かれ、コンビニ弁当と答えると母はまた同じようなことを言った。そんなこともあってか、コンビニ弁当を買っている姿を知り合いに見られたくない、というよくわからないプライドがある。「良い歳して、自分すら大切にできない人だ」と思われたくないからだ。さっきも会社の近くのコンビニに寄ったら、知っている顔がレジの列にいたので、何も買わずに出てきた。
青果店の店内に入ると、弁当の棚はもう半分以上空いていた。残っていたのは夕方に作られたらしい数個だけで、そのどれにも蛍光ピンクの半額シールが貼られていた。800円の値札の上に400円という新しい数字が貼られている。私は得をした気分でそのひとつを手に取り、450円のパッションフルーツを抱えて私はレジに向った。店員はパッションフルーツの値段がわからないらしく、各果物との値段の対応表を片手に「スーパーM、スーパーM」と品種名を小さく繰り返していた。対応表のどこにも私のパッションフルーツの値段は載っていなかったようで「すぐ確認してきますからお待ちください」店員はそう言って奥へ向かおうとした。「450円だった気がします」私の口から先に数字が出ていた。店員は「ありがとうございます」と頷き、そのままレジを打った。客の言い値を信じてレジを打って大丈夫なのか。少し不安になった。会計を済ませて店を出てから店頭の札をもう一度見た。税抜450円、税込486円と書かれていた。私は袋を提げたまま店内に戻った。「税込みだと486円でした」店員は「いいです、そのまま持って帰ってください」と私を押し返すような仕草をした。この店は個人経営ではない。帳簿が合わないと店員ではなく誰か別の人が困るのではないか。「450円でしたよ」と確信もないまま告げた自分に嫌気が差した。仕事でこういう確かでないことを口走って上司に叱られたばかりである。
調理台の上のパッションフルーツに手を伸ばした。私はそれを縦に真ん中で割った。中には黄色い果肉と、たくさんの黒い種が並んでいた。スプーンで掬って口に運ぶと、強い酸味と甘さが同時に広がり、種のひとつひとつが歯の隙間で音を立てた。パッションフルーツは情熱の果実だと勘違いされることがあるが、本当の意味は違う。passion には情熱という意味のほかに、キリストの受難という意味があるのだと、英語の授業で習った気がする。花の形が十字架と茨の冠を思わせるからだという。店員が値引きしてくれたのは、私がこの果物の値段を覚えていたささやかな情熱を買ってくれたのかもしれない。あるいは、私が私の体に与えている小さな受難を揶揄していたのかもしれない。どちらでもなく、ただ閉店間際の忙しい時間に客を引き止めたくなかっただけなのかもしれない。そんなことを考えながら、私は酸味の強いパッションフルーツをぽりぽりと食べた。